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岡田史観を紹介~中国の本質は市場である。

このるいネットでも何度か紹介されてきた岡田史観であるが、これから中国を見ていく上で重要な視点になるので、要点としてまとまったサイトがあったので紹介しておきたい。
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●岡田英弘~「皇帝を頂点とする大商業組織としての中国論」の紹介

東アジアに、なぜ強大な専制国家体制が成立したのか。なぜ、長年にわたって維持されたか。

ウィットフォーゲルを含め、ほとんどの歴史家は中国の社会基盤を農業とし、この農業の特色(ウィットフォーゲルの場合は大規模な水利事業)からアジア的専制国家を解読しようとした。ところが岡田は、この専制国家の本質を商業活動から説く。

「中国文明は商業文明であり、都市文明である。北緯35度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組み込まれた範囲が、すなわち中国なのである。そして中国語は、市場で取り引きにもちいられた片言を基礎とし、それを書きあらわす不完全な文字体系が二次的に生み出した言語なのである。」
「夏朝が、黄河中流の渓谷に沿った、洛陽盆地に中心をおいて、東方、東南方、南方にのびる内陸の水路を伝わってひろがる商業都市網を支配する、東アジアの最初の広域政治組織になった」

中国文明が洛陽盆地周辺から発生したのは、この地域が交通の要衝になる自然条件があったからだという。黄河文明は決して黄河大平原に発達したのではなく、氾濫を繰り返す河川平原はむしろ人々の居住を拒んだ。

黄河は、洛陽盆地直前までは河北の山西高原、河南の秦嶺山脈に囲まれ、急峻な谷を下る。渡河困難であり、河が交通の障害だった。黄河は洛陽盆地でやっと平地に出会い、流速を落とす。交通の便を成り立たせる。そしてその一帯は「南船と北馬が出会うところ」「東アジアの南北をむすぶ陸路と水路の結節点」となった。遠くは絹の道、海上の道にもつながる。ここに多くの民族の交易が集まり、そうした商業ネットワークの核として中国の皇帝体制が生まれた、とする。

(中略)
中国の都市は清代に至るまで城壁で囲まれているのが特徴で、王宮もその中にある。王宮の北には「市」、すなわち市場があり、南の宮門の内側には「朝」、すなわち「朝廷」がある。その朝廷で毎月何回か指定された日に朝礼の儀式が行われる。皇帝は午前2時ごろ起きて身を清め、犠牲を捧げて正殿に出御する。儀式が終わる頃日が昇り、北側の市場が開いて取り引きがはじまる。「王は市場の差配であり、朝礼は市場開きの儀式であった」とする。

市場を原型にした城郭都市は、首都から内陸水路に沿って各地に建設される。これら地方都市は古くは「邑」と呼ばれ、後に「県」(懸と同音で、首都に直結するの意)と呼ばれる。ここには首都から派遣された軍隊が駐留して交易活動を保護し、県城の県衙(役所)では、首都の儀式と同時刻に朝礼が行われた。

「いうならば、中国の本質は、皇帝を頂点とする一大商業組織であり、その経営下の商業都市群の営業する範囲が、すなわち「中国」だったのである。」

こうした地方都市と地方都市の中間の地帯は、夷狄の住地であったが、城郭都市の商業網の網の目が密になるにつれて、ますます多くの夷狄が城郭都市の名簿に登録して中国人となり、前221年の秦の始皇帝の中国統一までには、華北、華中の平野部では、夷狄はことごとく中国化して姿を消し、山地の者のみが取り残された。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーーーー
中央集権に繋がる群州制とは商業網の確立であり、同時にそれが中国の国家の骨格になっていった。市場を国家が私有する国、これがもう一つの中国の特徴である。「市場とは国家というもちに生えたカビである。」~この認識が中国の場合全く異なり、最初から市場と国家は一体化していたのである。





田野健
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