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価値論でしか反論できないのはファシズム前提だから

>>・・・・常々思うのですが、健康問題を云うなら喫煙問題と同時にマイカー(生産車数<個人車数だろう)の排気による大気汚染を問題にすべき事です。大気を吸って生きている生物は、大気汚染の方が遥かに重大問題です。しかし喫煙が許されずマイカーが許されるのは、女性や家庭それに屈した男達の車社会の肯定視です。環境運動でよく言われる割り箸運動やリサイクル運動等と同質の本末転倒の論理(過剰消費を肯定しての小手先の環境意識)で有って、本当の原因追求に至らないところです。
先日、嫌煙権者の知り合いが「それは犯罪が見つかったとき、「他の人もしてるじゃないか」という論理と一緒だ」と言ってきました。
これも観念支配の怖さではないかと思います。「問題を問題だ」と指摘することを「権利の主張」と摩り替えるところ。そして、こうした反論をする際の前提として「喫煙は悪いこと」と根拠なしに決めつけているところ。そうでなければ「他の人もしてるからいいという論理と一緒」という反論にはなり得ません。
つまり、価値論でしか反論できない。

>などと価値論争を展開しておられます。私は、すこし乱暴な議論に感じました。排気ガスの問題も重要ですが、今や車は運輸や流通、娯楽などを通して、現代社会に必要不可欠なものになっています。一方、タバコは個人の嗜好の問題であり次元が違うと感じます。

これも「価値論」じゃん?と感じてしまいます。
「タバコは個人の嗜好の問題」だとして、車は違うという根拠がわからない。そもそも個人主義をもとにした「嫌煙権」の問題を話しているのに、それをすっとばして、「個人の嗜好である」のならそれも尊重せいという話になるし。

逆に、松本さんはけして「価値論」の話などしていない。禁煙ファシズムのおかしさを指摘しているだけで、むしろ「乱暴な議論」と感じる所以は禁煙ファシズム=価値論を前提としているからじゃないでしょうか。
「次元が違う」というならお互い様なのです。

「価値論を棚上げにして事実を論ずる」のに否やはありませんが、巧妙に「科学データがあれば信じる(あるのか?)」というような極端なスタンスも価値論を温存したままの傍観者的な逃げのようにも感じてしまいます。
というのは実感レベルではおかしさ=事実を感じているのが普通だからです。そして実感=価値論になっている人が取るスタンスに上記のような「振り出しに戻るor戻す」スタンスが多いからです。

平川要
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