忍者ブログ

ウスター・ソースは嫌い?

「子ども」ほど既成概念に寄り縋る存在はない。外界受容のキャパシティが無限といえるほど大きいだけに、まず先輩ーつまり大人の「確たる提示」に縋り、それを主張することで、周囲の状況に適応してゆこうとする。

否定的内容はとりわけ受け入れやすい。積極的に行動せずとも「否定」を唱えるだけで済むからだ。

「タバコ」を否定する「子ども」は多い。まず、自らはそれを禁止されていて、傍観者として語ることができる。
さらに身近にあって、否定しやすいし、「反対できない論拠」が供与されていてそれに基づき自らを高みにおいて、権威ー「大人」を批判できる。子どもにとって、これほど「否定の快感」を味わえることはない。「破壊の快感」といってもよいだろう。

否定できるものを彼らは探索しているのである。閉塞した社会状況の中で、発散できるのは「他者否定」しかなく、しかも自身を安全圏・「官軍」側においてそれが出来ることが必須条件である。

「タバコ」は絶好の対象である。しかも彼らが自分でそれを見出したのではない。供与されたのである。したがって、その「論拠」たるや、提示された「自分の体にも悪いし、他人の体にも悪い。だから、必要ない。」あるいは「ポイ捨てが多く、地球環境を汚すから無用だ。」以外にはない。なんら実感・事実に基づいたものはない。せいぜい「臭いがいやだ。」に実感ぐらいであろうが、ニンニクや酒といった飲食物の臭い、生ゴミの臭い、トイレ臭等々がいやだから、それらをなくせ とはいっていない。そして、その提示以上に目も考えも及ばない。

自動車の「利便性」やエア・コンのもたらす「快適性」は失いたくないから、それらの害について彼らが言い及ぶことはない。あったところで「低公害車」の開発、エア・コンの温度設定が関の山である。
それらを作り出す市場の工業生産に論及することはない。

すなわち「嫌煙キャンペーン」は、目を考えをそこに及ばせないための「防波堤」「目くらまし」「スケープ・ゴート」である。

ナチス政権下で「ユダ公、死んじまえ」を言い立てて、投石したのは「子ども」である。公認された「正義」だからである。中国の「文化大革命」で「造反有理」と最も活発に行動したのは「紅衛兵」だった。
 
延々と言葉を連ねているが「論のための論」に過ぎず、「タバコは嗜好品ではない」ことを「実証」しようと必死であるが、「嗜好品じゃない。だから、どうなんだ。」と聞かれたらどう答えるのか。

大体「嗜好品」とは何なのだ?そんな定義が意味があるのかい?
あるとすれば、「嗜好品税」を設けるときぐらいだろう。

要するに、自分は嫌いだ・タバコはまずい 以外に言いたいことは持っていない。ウスター・ソースはまずい。その臭いを嗅ぐと吐き気がする人がいる。中に入っている糖分は体に悪い。それを入れてある容器は燃やすと一酸化炭素を発生する。こぼれたソースで衣服にしみができる。あるいは足を滑らせて怪我する人がいる。マヨネーズ・ケチャップも同様。これらは「嗜好品」でなく、「調味料」だよね。「タバコ」以上に摂取する人間は多いはずだが。

自身の好き嫌いで、「嫌ソースキャンペーン」だって行なえる。
それを様々な「排斥運動」に、「事実隠蔽運動」に持ち込むことは難しくない。 

匿名希望
PR

この記事にコメントする

お名前
タイトル
メール
URL
コメント
絵文字
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
パスワード