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「一人でも嫌がる者が居ればタブー」という強迫観念

マナーの氾濫への違和感は、従来なら当然のごとく、当事者間や共同体内の柔軟な不文律規範の中で処理されていた問題、言い換えれば、集団全体や社会全体にとっては“瑣末な”“どうでもいい”ような末端問題が、次々と法律や条例といった過剰とも思える強制力をもって社会全体に適用されていっているという点です。その様は、

> 万人の共認にまで至っていないのに多数派の価値観を押し付ける
というよりも、声の大きい反対派(往々にして文句言いは声が大きい)がごく少数でも居れば、残り多数の“普通の人”が仮に違和感を持っても、それに全く抗することなくいつの間にか社会的タブーにまで格上げされていく、というのが近い気がします。
そこにあるのは何か、「一人でも嫌だと思う者がいたら、何であれ全体がそれに合わせなければならない」という強迫観念のようなものです。そして、セクハラや煙草に代表されるように、これといった普遍的根拠が希薄で極めて個人的な感覚に基づくものほど、その強迫観念は強く働いているようにさえ思えます。

> 「自分が~されたらやでしょ?だから~はしちゃいけないんだよ」

という「自分発」の規範観念を認めている以上、他の人間の「自分発」も認めざるを得ない。だから、それがどんなに瑣末なものであっても(or瑣末であればあるほど?)、極端に言えば「私が嫌だと思うから。」という一言に一切反論できずに思考停止し、その解決を社会的強制力に委ねてしまう。その結果、違和感だらけの人権ファシズムが無限に広がるのではないでしょうか。

「個人」「自由」「人権」という旧観念が、最も低レベルかつ最も本質的な形で現れているのが、このマナー氾濫問題なのではないかと思います。

田中素
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